私はこの世で一番「サザエさん」を愛し、この作品を永遠に守り続けていきたいと願っている一人です。
と言いますのは、私の今は亡き妹、長谷川町子が「サザエさん」の生みの親だからです。私は妹と「サザエさん」を出版するために、「姉妹社」という芸社を作り、共に戦後の日本出版界を二人三脚で走ってまいりました。
当時、まだ女性の少ない業界にあって、町子は言うなれば私の戦友のような存在でした。戦後のモノのない時代に、本を作るためにやっとの思いで、用紙を調達し出版した漫画「サザエさん」。
ところが、B5ヨコサイズという判型が当時の書店には受け入れられず、瞬く間に返本され、家の中にうずたかく積まれて途方に暮れたこともありました。
また「サザエさん」の人気が出すぎて町子の仕事が膨大になり、そのストレスから胃を患ったこともあります。
「サザエさん」はテレビドラマ化されたり、舞台化されたことで、数多くのファンから高い支持を得ました。
そうしたファンの声援は町子にとって漫画家冥利につきる喜びでした。が、その反面、町子に精神的・肉体的ブレッシャーを与えていたのも事実です。
そんな折、町子が本当に心から楽しもうと思って取り組んだのが長谷川美術館(現・長谷川町子美術館)の開設でした。
もともと長谷川家は九州の出身で、私たち姉妹は小さな頃から有田や鍋島などの器を使って育ちました。また明治生まれの両親ではありましたが、椅子の生活をするなど当時にしてはハイカラな一面を持つ家庭環境でした。
私は学生の頃、母の薦めで洋画の藤島武二先生に弟子入りしていたこともあります。
私たちにとって、芸術とは常に身近にあって、心を和ませてくれるものだったのです。それぞれの仕事に疲れた私たち姉妹が、心の糧として少しすつ絵画や工芸品を収集して家に飾り、四季折々に節り換えをして楽しんでいたことは、ごく自然なことだったように思えます。
そうして集めたものが百余点を数えた時、町子は社会還元として、また女性の新しい仕事場としての美術館設立を思い立ちました。もちろん私もそれを快諾し、今度は美術品収集という二人三脚が始まったわけです。
どちらかと言うと締まり屋の私に比べて、町子は美術館のために平気で高額の作品を、それこそものの1分もかからずに買っていました。2人で開店前のお店に従業員出入り口から入れてもらい、まだ誰も購入していない絵画を吟味したこともありました。そうこうするうちに私たちのコレクションは膨らみ続け、このたび、収蔵品図録としてまとめることになりました。
美術館開館から早10年。この10年はまるで夢の間に過ぎた思いがいたします。この収蔵品図録の発行をきっかけとして、より多くの方々が、私たちのコレクションや長谷川町子の作品を共に末長く愛し続けて下さることを願います。(「長谷川町子美術寵収蔵品図録1995」/1995年12月25日発行より抜粋)
※現在、「長谷川町子美術館収蔵品図録1995」は完売のため、販売されておりません。
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