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戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流。知られぎる岡本太郎の実像へ一世田谷・上野毛のアトリユにおける熟き日々。
1940年8月、パリ陥落ののち最後の引揚げ船となった白山丸で、岡本太郎(1911-1996)は十年余にわたる滞仏生活に終止符を打って帰国した。そのわずか1年半後、今度は31歳ながら召集を受けて中国戦線に出征。ニ等兵として各地を転戦したのち収容所生活を経て復員したのは、終戦後1年近くが過ぎた1946年6月のことだった。 東京・青山の自宅はパリから持ち帰った滞欧作すべてとともに空襲で焼欠。まさに無一文からの再出発となったが、岡本太郎の戦後はここから始まった。 生活の建て直しとともに、岡本は極めて迅速かつ精力的に、この復興期、画家としての活動を再開してゆく。復員した年の暮れには世田谷・上野毛にアトリエを構え、仁科会会員となって新作を発表しはじめるとともに、挿絵や装禎の仕事も多数こなし、また1949年には前衛美術の牙城ともなる第1回読売アンデパンダン展に出品。画壇再編の趨勢のなかで特異な先鋭的理論家として指導的役割を担うようになる。 一方、1947年に出逢った花田清輝とともに「夜の会」を発会し、「世紀の会」のメンバーらもあわせて、文学者たちと、新たな芸術とその総合を標榜。日々、芸術・文化・社会をめぐって熱き議諭を闘わせ、そこで独自の「対極主義」を唱え、さまざまな芸術論の執筆に健筆を奮い、かつ、アトリエにあっては他に例を見ない実に個性的な絵画を次々と制作していった。 この稀有なる才能と尋常ならざるエネルギーを備えたひとりの画家が、戦後復興期という特異な時代の空気のなかで、人生の再出発を図ることになったという経緯こそ、何より興昧深い歴史的出来事といっていいだろう。 本展ではそうした経緯を、青山にアトリエを移すまでの世田谷時代(1946-1956)に焦点を絞って再検証する。絵画作品約20点をはじめ、この時期に制作された岡本の代表作とともに、同時代に活躍した二科展や読売アンデパンダン展関連の美術家、および「夜の会」や「世紀の会」に関わった文学者たちの作品や資料を多数展覧し、岡本の活動のみならずその背景となった時代の特質を省察する。
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