富本憲吉の東京時代(1926〜1946)
 北多摩郡千歳村(世田谷区上祖師谷)に新居と本窯を築き始めた1926(大正15)年から、単身故郷の安堵に戻った1946(昭和21)年の約20年が東京時代です。
 1935年頃までは白磁と染付を主とし、昭和10年代からは色絵や金と銀を同時に焼き付ける金銀彩の制作に取り組みました。地方の窯場を回り、各地方の特色ある伝統技法を研究し、1936
(昭和11)年の5月から10月までは、九谷(石川)の北出塔次郎の陶房に留まり、古九谷磁器の色絵技法を集中して研究しています。

 この頃より本格的な制作の始まる色絵磁器は、古九谷様式の表現方法をとりながらも、自己の生活に身近な自然や草花の写生から考案した模様が展開されています。
 二度目に九谷を訪れた1941
(昭和16)年は、定家葛の花の写生から創案した四弁花連続模様が完成を見た頃でした。
 また、1927
(昭和2)年には国画創作協会(翌年国画会と改称)の会員となり工芸部新設に尽カしたほか、帝国芸術院会員や文展審査員を務め、1944(昭和19)年6月には改組された東京美術学校教授に就任するなど、公的な活動が本格化した時期でもありました。
















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