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「不動産業」発案者、斎藤すみ子さん逝去
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不動産業発案の原点は喫茶店
『不動産業』 の発案者で、不動産業 「紅弥不動産」創業者斎藤定男氏夫人の斎藤すみ子さんが、この1月28日亡くなった。89歳だった。
大手薬品会社満州事業所に就業していた定男氏と満州で結婚したすみ子さんは、終戦後、焼け野原と化した東京の、比較的建物を残していた世田谷区
「池の上」 に帰省。
ここで定男氏が八百屋を始めたのに対し、5人の育児で多忙なすみ子さんの、
「私にできることは、コーヒーを出すことくらい。」
という自身の希望で、昭和21年11月29日に小さな喫茶店をオープン。
和気あいあいの喫茶店内では住まいの話も多く、すみ子さんはいつしかそれをノートするなどして覚えておく。次の客が、
「私は、こっちの方にどうしても住まいが必要なの。」
という話があると、双方を紹介する。
これが不動産の商売の始まりだった。
「奥さん、この辺りにいいもの出たら、頼みますよ。」
「じゃあ、そこに住所と名前書いておいて下さい。」
現在の手数料というものはなかったが、
「奥さん、お世話様でした。」
と双方が封筒で置いていく礼金は5千円ほど。
当時、八百屋で百円の利益を出すのは大変なことだった。
「お父さん、これなら不動産やった方がよっぽどいいよ。」
と定男氏に勧める。
初めは乗り気でなかった定男氏も、喫茶店で頻繁に持ちあがる不動産話に遂に決意。
「頭を使って契約書作り、人を世話すれば商売になる。これは面白い、やりましょう。」
と定男氏は八百屋を辞め、昭和25年10月1日、紅弥商事の名で正式に不動産業を開業した。賃貸借を主とした4〜5坪の小さな店だったが、空襲後の家不足で借りる人の方が多い時代だったことや池の上周辺は焼けなかったので物件も多く、幸いした。
その後、不動産トラブルが頻発し、不動産業は
『登録制』 から 『免許制』 になった。
定男氏は免許制になってからも、不動産の先生、免許制勉強会の副会長・経理部長などの世話役も引き受ける一方、関係者15人位で新宿に不動産学校や各地区の責任者を選任するなどして組織作りもするなど、活躍。
斎藤定男・すみ子夫妻は 『不動産業』 の発案から公正化まで手掛けた、いわば
“不動産業の産みの親” である。
定男氏: 「常にすみ子あっての自分だった。どんなに辛いときでも、常に横で応援してくれた彼女の存在は、自分にとって非常に大きなものだった。」
■紅弥不動産株式会社=世田谷区北沢 2−4−8 Tel:03-3413-2280
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